「ジムノペディ」は、他の多くの曲と少し違っています。気付いたらこの曲を知っていた、聞いたことはあるけどいつ聞いているのかはいまいち思い出せない、そんな無意識の中に入ってきている音楽です。作曲者はエリック・サティ、「音楽界の異端児」の異名を持つフランスの作曲家です。異端児の名にたがわない数々のエピソードを持つエリック・サティの人物像と、ジムノペディがなぜ特別な音楽なのかに迫っていきましょう。

エリック・サティの生涯

まずはざっとエリック・サティの生涯とその時代背景を見ていきましょう。

1789年に起きたフランス革命は「フランス人権宣言」を出し、共和制へと突き進んでいきます。しかし、恐怖政治が登場するなど社会の混乱が収まらず、フランスがまとまるにはナポレオン・ボナパルトの圧倒的なカリスマと軍事力が必要でした。ナポレオンは1799年フランス統領となり、1804年にはフランス皇帝となり、フランス第一帝政が敷かれます。

市民が政治を行うための共和制を作ったはずが、気付いたら完全独裁制の帝国が出来上がっていたというのは皮肉ですね。その後何度もクーデターが繰り返され、帝政と共和制を繰り返します。1852年から1870年までは第二帝政時代とよばれるナポレオン3世の統治時代となります。

前置きが長くなりましたが、エリック・サティはそんな第二帝政時代の1866年にオンフルールで生まれました。

このような社会の混乱と、市民たちの自由を求める力、そして様々にぶつかり合う思想はエリック・サティの大きな要素となります。

1870年にパリに移り、1879年サティが13歳のときにパリ音楽院に入学します。パリ音楽院は1669年の王立音楽アカデミーを起源とする、当時から伝統のある学校で「コンセルヴァトワール・ド・パリ」とも呼ばれます。「コンセルヴァトワール」は「保存する」という言葉が語源で、伝統を継承する機関という意味です。

しかし、サティにとって、伝統的な音楽を学ぶのは少々退屈だったようです。パリ音楽院ではあまり真面目に勉強せず、読書にふけったり、教会音楽の研究などをして過ごしていました。

そして1887年にパリ音楽院を中退しました。

その後サティはパリの文化人たちとの交際を続けていきます。それは音楽家だけに限らず、画家、小説家、詩人、哲学者、脚本家、映画監督など、多くの分野の人たちと交流し、またサティ自身も絵や詩を書き、思想を言葉にしていきました。

なんと、サティはルネ・クレールの映画に役者として出演していたこともあります。(音楽もサティ)

そしてサティはパリの文化の中心的な人物となり、様々な人への批評を行ったり、常識にとらわれない革新的な創作活動を続けていきます。

ここまで見てもわかるようにかなり尖った人物だったようで、例えば次のようなエピソードがあります。

パリ音楽院に対抗して作られた音楽学校スコラ・カントルムに、1904年(38歳)に入学しました。すでに名声も実力もあるサティは教授の立場でもおかしくないはずですが、教える立場になったら緊張してしまいますね。

またサティは雨傘が大好きだったようで、雨傘コレクターと何本も雨傘を持っていたようですが、1905年に演奏会場の前で雨傘で決闘して警察に拘留されてしまいます。一体何をやっているのでしょうか。

音楽において様々な可能性を模索し、20世紀の音楽である近現代音楽に大きな影響ををもたらし、とくに現代音楽の早すぎた創始者ともいえたサティでしたが、1925年、アルコール乱用を原因とする肝硬変で死去しました。

家具の音楽ーそこにあるだけの音楽ー

「ジムノペディ」は1888年(22歳)に書かれた若いときの音楽ですが、この音楽を語るために必要なのが、その30年以上後の1920年に書かれた「家具の音楽」です。

現代日本のレストランでは、大抵BGMが流されています。レストランのBGMは、それが気になってしまっては食事に集中できませんし、逆に聞こえなくても回りの音がうるさく感じられてしまいます。クラシック音楽は音量の幅が広く、またクライマックスを大切にするため、レストランの音楽に適しているとはいえません。

サティはこのような「意識して聞くわけではないけれども、そこにあれば快適である音楽」を発想しました。これはまるで家具のようであることから「家具の音楽」を作曲します。

この試みは、演奏会場ではどうしても観客が黙って座って聞いてしまい失敗に終わってしまいますが、現代の視点からみれば世界中で取り入れられた大成功の発想だったといえますね。

そして、ジムノペディは、まさにこのBGM(「背景の音楽」の意味)に最適の音楽ということができるでしょう。ゆったりとして、音量の変化が少なく、どの瞬間を切り取っても美しく、その空間に流れているとリラックスできる音楽です。

サティはこれまでの西洋クラシック音楽では受け入れられにくかったこのような音楽をシンプルながらも美しい旋律と、巧みな和声感により、独立した作品としても成立させました。これは思いついてもなかなかできることではなく、類まれな才能の発揮ということができます。

ジムノペディの意味

「ジムノペディ」という言葉はなかなか聞きなれない響きですよね。フランス語では「Gymnopédie」と書きます。これはギリシャ語が由来で、”Gymnos”「裸の」と”Paedia”「子供」を表す2語がくっついた”Gymnopaedia”を表します。紀元前668年にスパルタの戦勝記念として裸の男児達が踊る祭りが催され、これがGymnopaediaの起源とされています。

ゆったりとして優美な「ジムノペディ」とは少し印象が異なりますね。なぜなのでしょうか。これにはいくつかの説明ができます。

まずひとつは、このGymnopaediaの様子が書かれた絵から発想されたという説です。

古代の人類史に思いを馳せてその印象を曲にしたというのであれば少しイメージとタイトルが近づくのではないでしょうか。

もうひとつは、特に意味が無いという説です。

サティはほとんどの曲にタイトルを付けていますが、そのタイトルが曲の内容と一致していないことや、そもそもタイトルがナンセンスだったりすることがあります。

「梨の形をした3つの小品」は実際には7曲から成り、「犬のためのぶよぶよとした前奏曲」のタイトルもよくわかりません。

実際には、これらのタイトルには権力や伝統への皮肉が込められていたり、サティ自身の思想からきたものであることが多いのですが、ダダイズムあるいはニヒリズム的な価値観からナンセンスに思えるタイトルをあえて付けたと考えることができます。

ジムノペディを見てみよう

ジムノペディの楽譜を見てみましょう。

まず、Lent et douloureuxと書かれています。”Lent”は「遅く」、”et”は「そして」、”douloureux”は「悲痛に」という意味になります。”douloureux”はただ悲しいというより、さらに痛みを伴うような辛い悲しさを表す言葉です。少しジムノペディを聞いたときの印象とは異なるのではないでしょうか?

実際に聞いていくと、終わりのほうで悲痛な和音が登場し、沈むように終わっていきますが、その部分を表しているのか、もしくは全体的に悲しく弾くべきなのか、それは演奏者の解釈に任されるところでしょう。

旋律は基本的に四分音符と付点二分音符のみで朗々と歌っています。これはサティがパリ音楽院時代に勉強していた教会音楽「グレゴリオ聖歌」の影響が強く出ています。

この曲はよく似ている前半と後半に分けることができますが、両方に5つのフレーズがあります。1つめと2つめのフレーズはよく似ていて、3つめと4つめのフレーズも関連性が見られます。5つめのフレーズが全体をまとめる役割を果たしていて、非常にバランスが良い作りとなっています。

調号は♯2つで、これは本来なら二長調(D-Major)を表します。しかし、曲を聞いていると、どうも中心音がはっきりしません。伴奏は、どちらかというとG音(ソ)が中心のような気がしますし、右手のD音(レ)もなんとなく安定感がありません。

従来のクラシック音楽の緊張と弛緩の流れを否定し、独特のバランス感覚で音楽を成立させています。

タイトル「ジムノペディ」や、標語「遅く、そして悲痛に」の不思議な感覚、調性からはずれ、近代的な和声と中世的な旋律の融合、それでいて全体が整っているバランス感覚、これはサティならではのものといえます。その上で、奇をてらった感じも無く、BGMの代表曲といえるほどの安心感や、リラクゼーション効果があり、センスの塊のような曲といえますね。

2、3番の存在と、ドビュッシーの編曲

実はこの有名な「ジムノペディ」は「3つのジムノペディ」の第1番で、他に2番と3番があります。(「3つのジムノペディ」はしっかり3曲です)

3曲ともよく似ていますが、同じ音楽を表と裏から見たような、あるいは昼と夜に見たような、不思議な感覚になる組み合わせになっています。

また、ドビュッシーは3番と1番の順番でオーケストラ用に編曲しています。ドビュッシーならではの中世風の独特の世界観が活かされた見事な編曲となっていますので、ぜひこちらも聞いてみてください。